芦屋釜(筑前芦屋・古芦屋)
芦屋釜(筑前芦屋・古芦屋)とは
薬湯用の湯を沸かす道具として中国(漢様式)から伝わる鍑(ふく)から影響を受け、北九州 筑前地方 芦屋津にて芦屋釜の祖釜が鋳造されました。
貴族の間で茶が流行し貴重な品々が飾られる書院にて使用するため、装飾に拘った芦屋釜という風炉釜が造られるようになりました。
芦屋釜の特徴として
図紋は土佐派の絵師に描かせ、造形は「まことの形」として創造された真形で、邪気を払う鬼面鐶付きは強く鋭く形成され、芦屋鋳物師の高い技術力によって薄く繊細に造られています。
様々な人々の気力を全て結集させた芦屋釜は世界に誇る鉄の芸術品だと言えます。
芦屋釜(筑前芦屋・古芦屋)の起源
鎌倉時代中期頃までには薬湯用として祖釜が生れ、貴族好みの形態を持った風炉釜が造られるようになったと考えられます。
<芦屋釜の起源についての書物には諸説あります。>
・建仁時代説(1201~1204)
釜師之由緒(西村道冶・元禄13年)、閑事庵宗信自記(坂本周斎)、茶家醉古集(湖老翁)
・弘安時代説(1278~1288)
萬宝全書、鑄家系(名越8代昌孝)
・東山時代説(1436~1490)と
雍州府志(黒川道祐・貞享3年)、江海風帆草(立花重根・宝永9年)、和漢三才図会(正徳2年)、筑前名産考、芸窓襍載(横井時冬)
まず東山時代説は芦屋釜盛期の時代で存在した事は間違いないですが、
1.絵巻物の羅什三蔵絵詞(らじゅうさんぞう)<鎌倉時代末期>には僧達が喫茶をするため風炉釜を置いている様子が描かれている。
2. 庭訓往来(ていきんおうらい)南北朝後期〜室町初期という文献に「一対茶釜」「風炉」「鉄等鑵子」と初めて出てくる。
この事から東山時代を起源として考えるには疑問に思います。
建仁時代説は「建仁時代頃までは茶を薬として煎じていたと考えられ、植物性生薬に銅や鉄分は不向きなので土釜で湯を沸かしていたと思われます」ので違うように思います。
弘安時代説も確かな文献が残っていませんので断定する事は出来ません。
私が参考にしたのは細見古香庵著の(茶之湯釜の研究)にあります、
「栄西禅師が宗から帰り病弱の将軍 源 実朝に喫茶養生記と共に抹茶に湯を注いで薬として献じたという記録が残っています。その後、貴族間で喫茶が流行り書院にて湯を沸かす風炉釜が必要になり、鎌倉時代中期頃までには芦屋釜の祖釜が造られた」という一文です。
茶を煎じていたものを抹茶と湯で点てるようになる。当初は湯瓶で湯を運んでいたものが次第に風炉釜で湯を沸かすようになり芦屋釜が生れた。
「○○時代の何年に芦屋釜が生れた」とは断定出来ないですが、確かな文献がない中でこの説明が一番納得できる見解だと思います。
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