茶之湯釜の歴史

中国より茶が薬として渡来し、寺院や大名 公家などに親しまれ茶を飲む習慣が始まりました。
当初は「かまど」や「囲炉裏」で湯を沸かし湯瓶で書院に運び入れて茶を点てていましたが、使いやすさから湯を沸かす道具として書院に風炉釜を置くようになりました。

鎌倉時代中期~室町時代前期

書院には中国から渡ってきた貴重な品々が飾られている為、造形美や地紋(釜の表面に描かれる図)など他の鋳造地では真似できない気品高い芦屋釜(筑前芦屋)という茶之湯釜が創り出されました。

室町時代中期 

足利義政が銀閣寺の小間の炉に合わせるために香炉釜など他の器物を模した茶之湯釜を考案し、京都の鋳物師に造らせたのが京釜の始まりです。

応仁の乱の後、戦乱の渦中を生きる武家や民衆は、芦屋釜の重厚な優美さよりも、より世俗的な変化の多い形や勢いのある釜肌に新しい魅力を感じ、奈良時代より煮炊き釜として扱われてきた天命釜を茶之湯釜に転じて愛用するようになりました。

室町時代後期

茶之湯がそれまでの書院茶から 村田珠光、武野紹鴎、千利休からなる草庵茶(侘茶)が大成され流行するに伴って京釜と天命釜はさらに発展していきました。
また、芦屋の鋳造地を支えていた大内家の滅亡により、芦屋釜の工人達が各地の鋳造地へ散らばり移り住むようになりました。(脇芦屋につながる)
これより芦屋の鋳造地は衰退していきます。(桃山時代末期に絶える)。

桃山時代

茶人達が様々な釜(芦屋釜脇芦屋、天命、京釜(釜屋作))を用いるようになり、各地で競うように新しい釜を発案する茶之湯釜の最盛期が花開きました。

江戸時代

千利休からなる千家の茶、また様々な流派の茶の時代が訪れ「利休が考案した釜」や「家元好みの釜」などを踏襲して茶之湯釜が造られるようになりました。
(京釜から派生する工人達が「釜屋作・釜師作」として自らの名を付けて各地で釜を造りました。)

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