脇芦屋釜

脇芦屋釜とは

技術力の高い筑前芦屋の鋳物師達が他の鋳造地に移り住み造った茶之湯釜の総称で、「越前」「伊勢」「伊予」「石見」「博多」「播磨」「肥前」「河内」などがあります。

元々は「伊勢釜」「越前釜」などと呼ばれていましたが、「伊勢芦屋」「越前芦屋」のように芦屋鋳物師の時代背景を判り易くする為に釜研究家の長野垤志氏が名付けた名称です。
(江戸時代後期「極め(鑑定書)」には「越前釜芦屋古作」などと書いてある事があります。)

芦屋の鋳物師達が他の鋳造地へ移り住む理由として

「芦屋釜の支援者である大内義孝の暗殺(陶 隆房)から始まる大内家の滅亡により、生活が不安定になった芦屋の鋳物師達が各地の鋳造地へ移り住むようになる」事が最大の要因ですが、
「応永年間末期に越前の鋳造地にて芦屋の茶之湯釜を造るために鋳物師が呼ばれる」、
「黒田長政の福岡城築城のため鋳物師として筑前より博多へ呼び寄せられる」
「藤堂景虎が芦屋の工人を伊勢に招く」など、
様々な理由で各地の鋳造地へ移り住んでいったと思われます。

移り住んだ鋳物師達は芦屋釜の技術を伝えるだけでなく、芦屋とは質の異なる各地の鉄を工夫し現地の鋳物師達と共に技巧を高め合い、時代の変化により求められる茶之湯釜の変容に応じることで、芦屋釜とは違う多種多様な魅力ある茶之湯釜を創り出していきました。

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