播磨芦屋

播磨芦屋とは

東山時代より茶之湯が隆盛になり、その影響で永正時代~永禄時代より造られ始めた芦屋風の茶之湯釜が播磨釜です。元々新羅系の鋳造地であった場所に芦屋の工人を招いたのか、独自に芦屋釜を真似たのかは不明ですが、甑口や摘鐶付を主体とした湯釜から芦屋風の茶之湯釜に変化していった様子が伺えます。

播磨国野里村(現 姫路市野里)の播磨鋳物師棟梁であった三代目芥田五郎右衛門は「方広寺鐘名事件(国家安康)→大阪夏の陣」などで有名です。

播磨釜の特徴として

口際に玉縁を巡らし甑口には雷紋や亀甲紋・七宝紋・巴紋等を描きます。

鐶付きは獅子尼面が多く、地肌が土目で文様は強めに押し出されています。

優雅さと力強さを両面持った茶之湯釜です。

播磨釜の起源

「宗信自記」坂本周斎著(江戸時代中期頃の茶人)によると永正時代(1504~1521)から造られ始めたとされており、在印のある物も多数存在します。

大内義隆が暗殺された天文20年(1551年)から考えますと少し前から伝わっているようにも思えますが、初代芥田勝義(勝久)の時代から茶之湯を造っているとしたら合っていると思います。

また、二代芥田家久が永禄11年(1568年)に播磨国中鋳物師惣官職 (はりまこくちゅういもじそうかんしき)を与えられていますので、芦屋から工人を呼び寄せてこの時代から茶之湯釜を造りだした可能性もあります。

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