博多芦屋(博多釜)

衰退していく芦屋の鋳造地からほど近い貿易都市であった博多へ芦屋の中でも技術が高いと言われた鋳物師達(山鹿系)が移り住みました。外来文化を取り入れ、他のどの鋳造地よりも美しく細かい装飾や新様式の造形で創造された茶之湯釜が博多釜です。
(多くの芦屋鋳物師が移り住んだ事から芦屋直系の鋳造地と言われています。)

博多釜の特徴として

鉄肌は美しく、地紋が細かく繊細で、文様に物語性を持った物もあります。
造形は真形が少なく、漢様式・新羅様式とは違う日本人が創案した新様式で造られています。
地金は貿易港である地の利を得て南蛮鉄を使用しています。
(南蛮鉄と和銑をブレンドした釜や和銑のみで造られている釜もあります。)

博多釜の起源について

現存する資料の中では「1601年に黒田長政が築城・兵器鋳造の為に芦屋より博多へ鋳物師を招いた」とあり、この頃には博多芦屋あったとされています。
1551年に大内義孝が陶晴賢に暗殺され大内家が滅亡してから大友宗麟が統治している約50年間、支援者を失い衰退していく芦屋から発展している博多へ誰も移り住もうと思わないのは不自然だと思います。
また、
その時期に大友宗麟は海外貿易を盛んに行っている事、
博多釜が南蛮鉄で鋳造されている事、
大友宗麟も有名な茶人(数寄者)であった事、
桃山時代初期には既に伊勢伊予播磨で新様式釜が造られている事、
などを考えますと、桃山時代初期には博多釜が既に造られていたと思います。

桃山時代末期まで芦屋釜も造られていた事から推察すると、
桃山時代前期~中期は「伝統を繋ぐ芦屋釜」と「新たな茶之湯釜を創造していった博多釜」が近い場所で併存していた。
桃山時代後期、大友家に代わり黒田家が統治するようになり、黒田長政が芦屋から博多へ鋳物師を大々的に招いた。
桃山時代末期、新様式の茶之湯釜の流行や物資の運搬、経済的な理由から徐々に貿易都市である博多へ鋳造地が一本化されていった。
このような人の流れがあったように思います。

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