伊予釜(伊予芦屋)

伊予釜(伊予芦屋)とは

伊予国旧名越村(現川内町)に芦屋系統の移住と考えられる伊勢釜に似た作風の茶之湯釜が伊予釜です。炊飯用湯釜はおそらく南北朝時代以前から造られており、茶之湯釜としては室町時代末期から江戸時代中期頃まで造られています。

銅山が多いためか風炉の作品も多くあります。

伊予釜の特徴として

鉄の材質から伊勢釜より柔らかい印象を受けますが繊細で美しいです。
造形は真形が少なく、漢様式・新羅様式とは違う日本人が創案した新様式で造られています。

伊予釜の起源について

天文23年に書かれた「茶具備討集」にも「伊予釜」と書かれています。
元禄7年に書かれた「萬宝全書」には「伊予釜 太閤時代」と書かれています。
愛媛県大宝寺の鉄製の灯明台に「嘉吉3年(1443年)与州名越国永作」とあります。
大山祇神社に「名越住国益作」の鏃があり南北朝時代の作だと伝えられています。
「慶長以前の梵鐘」(考古学会編)には伊予釜は室町時代末期から鋳られていたと記録されています。
近くには名越城跡や安国寺というお寺があり、現在 鍛冶屋という屋号の名越家が存在します。(刀工か鋳工は不明)伊予国は「立川銅山」「別子銅山」「広田鉱山」「佐々連鉱山」などの銅山や鉱山が多い土地です。

立川銅山(寛永13年以前にあったとされており、天正13年頃という説もあります。)
別子銅山(元禄3年1690年に住友)
広田鉱山(寛永2年1625年)
佐々連鉱山(元禄2年1689年)

伊予藩主一柳監物  天正13年 安国寺恵瓊

5. 新居浜在住の高橋恭子著「立川(タヂガワ)銅山物語」では、天正13年(1585年)の天正の陣の以前に、既に立川銅山が操業されていたことを書いている。3)

「大同3年(808年)伊王郡別名村星大明神諸願成就をした片岡氏は、源平合戦で平家が滅亡した文治元年(1185年)加茂川をさかのぼり、四国山脈を越えて土佐に身を隠した。— 年は下り、—土佐の長宗我部国親、元親に信任された片岡茂光は、仁淀川流域の高吾北一帯を領するに至った。この頃から立川鉱山に関わりを持つようになったと推定される。長宗我部元親は、続いて阿波の三好氏を滅ぼし、次に伊予の東予新居郡の金子元宅ら7城主と同盟を結び、天正13年(1585年)春に四国制覇を遂げた。が僅か2,3か月後に豊臣秀吉の命を受けた中国・毛利氏の小早川隆景率いる軍勢が伊予国新居郡に上陸し、金子城城主金子元宅率いる東予勢力を制圧した(天正の陣)。片岡茂光の子、片岡光綱は、元親の命により、急遽金子城へかけつけ、援兵の高吾北に住む一領具足達と共に戦い、討ち死にした。
立川銅山の経済力を背景に栄えてきた長宗我部家、片岡家、金子家、真鍋家、高橋家はこの戦いにより有用な人々のほとんどを失った。」

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